備忘録

都内在住SEのアラサー。PNH持ち。好きなこと、思うことを記録。映画、美術館、宝塚がメイン。。

『異人たちのルネサンス』関連の美術史のお話。

見てきましたよ、宙組
が、今回は感想ではなく、個人的興味のためのまとめ。


えぇ、わたくし大学時代の専門は西洋美術史でございまして、卒論はヴェネツィアルネサンスの巨匠、ティツィアーノでした。
のでフィレンツェルネサンスも専門ではないけど、大好きですよ!!ってことで家にあった資料を引っ張り出してきました。
パンフレットに載っている記事と似たようなものの気がするけど、気にしない。
ちょこっとだけ図版も載せたりリンクを張りました。

なお、以下の記載を見れば脚本はだいぶ歴史的事実と反するところがありますが、それを指摘するものではありません。
宝塚の歴史性を求めてませんからね!!


さてさて、レオナルドダヴィンチ(真風様)は1452年、フィレンツェ近郊のダヴィンチ村に生まれる。(レオナルドダヴィンチは、ダヴィンチ村のレオナルド君、の意味。)
実母と実父は結婚せず、それぞれ別の人と結婚。
レオナルドは公証人の実父に育てられます。
ちなみに実母の名前はカテリーナ。

生活は豊かだったが、正式な教育を受けていないため生涯鏡文字を書き続けたとか。
愛情を注いでくれた継母が12才のときに死亡。レオナルドは孤独の生活を送ります。

17才のときにフィレンツェに連れられ、ヴェロッキオ(松風輝さん)の工房に入門。
初期に手掛けたのが《キリストの洗礼》。
https://artsandculture.google.com/asset/baptism-of-christ/HgE0TNZqMx1hXw
左隅の天使を描いたのがレオナルド。
師匠はその腕前に感嘆し、筆を折ったとの逸話もあるくらい。(その後も描いておりますが、この人自身は彫刻のほうが評判よかったらしい)

 

ヴェロッキオの工房で先輩としていたのが、8歳年上のボッティチェリ(蒼羽りく君)。
(劇中のセリフでも「プリマベーラ(春)」とか「三美神が…」とかありましたね)

ボッティチェリは31才(1475年)のころからメディチ家パトロンとなり、同年に描いた《東方三博士の礼拝》にはロレンツィオドメディチ(芹香斗亜さん)と画家自身の姿も。

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ボッティチェリ 東方三博士の礼拝

(一番右端でこちらを向いているのがボッティチェリ。左端の赤い洋服がロレンツィオ。)

また、この年社交界にデビューしたジュリアーノドメディチ(桜木みなと君)が騎馬試合に持った旗も彼がまたデザイン。
が、劇中でもあったようにその3年後1478年の「パッツィ家の陰謀」で命を落とします。
処刑された犯人をレオナルドが描いたスケッチも残っております。ボッティチェリが描いた絵もあったようですがこちらは消失。

有名な《春》は1482年、《ヴィーナスの誕生》は1485年の作品。どちらもメディチ家のための作品。

 

ボッティチェリは1481年、37才のときにローマ教皇に招かれヴァチカンで壁画を制作。最高級の賛辞を集めます。
(この頃ローマ教皇に呼ばれる、というのは最大級のステータス。ローマ教皇神聖ローマ皇帝どちらの権力が強いかはそのとき次第でしょうが。)

ちなみにメディチ家はもともと薬商人。そこから金融業を営み、フィレンツェにて栄えます。
メディチ家の家紋は丸が6つですがこれは錠剤を示したもの。劇場でも横にありましたね。英語のmedicinの語源もこのあたりだった記憶。
(若干自信ない。違っていたらごめんなさい)


さて、一方のレオナルドに戻ります。
1473年、21才のときには工房から独立して《受胎告知》でデビュー。
https://g.co/arts/5phzjaouqktf16wm7

が、工房の兄弟子的なボッティチェリが1481年教皇に招かれ、失意のレオナルド。翌年ロレンツィオの使者としてミラノに赴いたのを機にこの地に留まることを決めます。
レオナルドがフィレンツェに戻るのはそこから18年後の1500年でした。


《最後の晩餐》があるのもミラノの教会。

モナリザ》を着手するのは1503年のころ。死ぬまで手元に持っていたと言われています。
(《モナリザ》は織物商人フランチェスコデルジョコンドの依頼で作成開始したらしいが、手元に持っていて良かったのか、は気になるところ。違約金でも支払ったのか?
絵のモデルはこの商人の妻とも、別にいたともはたまたレオナルド自身説も。)


以上が『異人たちのルネサンス』に関連するレオナルドの歴史でした。
同時代にフィレンツェ、ローマを中心に活躍した巨匠はミケランジェロ(1475~1564)、ラファエロ(1483~1520)。
ヴェネツィアティツィアーノ(1519~1594)。
ミケランジェロを題材にした作品も宝塚にはありますねぇ。


最後に、フィレンツェはその後どうなったか。
豪華王とも呼ばれたロレンツィオが死ぬのは1492年。
1494年にはフランス軍が侵攻。メディチ家フィレンツェから追放。
その後のフィレンツェを一時的に牛耳ったのは修道士サボナローラで、厳格すぎる神聖政治を唱えました。
次第に市民の反発を招き、最後は1498年焚刑。

ボッティチェリはこのサボナローラに傾倒しており、手元にあった絵画を焼いております。
なんと勿体ないことを…と全世界の美術史ファンが涙。

 

というわけで以上、個人的趣味による歴史解説でした。
いやぁ、楽しかった笑

 

【参考文献】
・『ルネサンス美術館』
・『週刊 世界の美術館 ルーブル美術館1』
・『週刊 世界の美術館 ウフィツィ美術館1』